バプテスト聖書アカデミー信仰宣言


第一部

初めに神が天と地に満ちるすべてのものを創造し、人を神のかたちに男と女に、聖く罪のない者として創造した。しかし最初の人は悪魔の誘惑に屈し、故意に罪を犯した。こうして全人類は悪魔と死と罪の支配下に置かれた。

神は悪がはびこる地に心を痛めたが、契約によって世界と和解する御業を開始された。神はノアの契約において、世界の保全を約束され、アブラハムの契約において、神を信頼する信仰を義とみなす約束をされた。そして神はイスラエルをご自分の民として選び、贖い、モーセと契約を結び、律法を授けた。さらに神はダビデの契約において、ダビデの子孫が王となり王国を確立すると約束された。

しかしイスラエルは信仰によって律法を追い求めず、神に背く民となった。そこで神は預言者を通して、神の御怒りの艱難の後にメシアと神の国の到来を約束された。エジプトを脱して約束の地に入ったように、バビロン捕囚から帰還し、暗黒と死の陰の中から律法の下にある者を贖うために、神のひとり子イエス・キリストが人として受肉された。

初臨のキリストは神の国到来に向けて悔い改めて福音を信じるよう説き、神の子羊として全人類の罪のために砕かれ、十字架の上で死を遂げた。御父は御子を三日目に復活させ、罪を赦し心を一新する新しい契約を開始した。

ぺンテコステの日以来、御父は御民にこの契約に基づく聖霊のバプテスマをもたらし、キリストによる贖い、赦し、悪魔の支配からの解放、新しいいのちの再創造を実現される。イエスを主と信じる人は誰でもキリストにつくバプテスマによって一体となってキリストのからだに組み込まれ、水のバプテスマを受けて教会に加わる。教会は主の晩餐を通してキリストの死を記念し告げ知らせる。

しかしイスラエルへの神の賜物と召命は変わらない。異邦人の完成のなる時、主の日が突然訪れ、神の御怒りの大いなる艱難の中でイスラエルが主に立ち返る。空中でご自分の聖徒を神の御怒りから守ったキリストは聖徒と共に地上に再臨し、キリストがダビデの位に座す千年間の神の王国が実現する。いのちの書に名のない者は、死とハデスと共に火の池に投げ込まれ、新しい天と新しい地の再創造が完成する。神はご自分のことばである霊感された聖書によって、これを加減することなく啓示され続けている。

第二部

1.聖書について

私たちはこう信じる。聖書66巻は、聖書記者たちが聖霊に動かされて書いたものであり、原典において、超自然的に、また逐語的に霊感された神のことばそのものである。ゆえに誤りを含まない真理であり、人類に対する神の意志の完全で、すでに完結している唯一の啓示である。聖書は信仰と実践における唯一の規範で、キリスト者の一致の真の中心であり、人間のすべての行為、思想また信条をためす最高の規範である。かつてこのように霊感された書物はなく、この後もありえない。

2.神について

私たちはこう信じる。唯一の生きた真の神は、父、子、聖霊の三位一体の神である。それぞれ神としての完全性は等しく、贖罪の御業では区分があり、しかも調和ある職務を果たされる。神は無限かつ聡明の霊、天地の創造者、最高の支配者である。このお方は聖なる方であり、栄光に満ち、すべての名誉、信頼また愛を受けるにふさわしいお方である。

3.キリストについて

私たちはこう信じる。イエス・キリストは永遠のはじめから神であるが、聖霊により、超自然的に処女マリアから生まれたことによって完全な人となられた。これまでどんな人も女からこのように生まれたことはなく、この後も生まれることはない。 キリストは十字架上で私たちのために死なれたが、三日目に肉体を伴って復活され、神の王座の右に上げられた。彼のみが神の御前にあわれみ深い大祭司である。

4.聖霊について

私たちはこう信じる。聖霊は三位一体の位格を持ち、父なる神、子なる神と等しく神である。創造の御業において働かれ、不信仰の世との関係においては神の目的が達成されるまでサタンを抑制する。人々に神の前における罪、裁き、義を悟らせ、説教、証しの中で、福音の真理について真の理解を与えるお方である。 新生は聖霊の働きである。信者に証印を押し、力を与え、導き、教え、証しし、きよめ、助ける。

5.悪魔、すなわちサタンについて

私たちはこう信じる。サタンとはかつては聖なる者、天の栄誉を味わった者だが、全能者である神のようになりたいという高慢と野心のために堕落をし、一群の天使たちを引き従わせた者である。今彼は空中の権をつかさどる邪悪な君主、この世の汚れた神と呼ばれる。サタンは、人類の大誘惑者、神およびキリストの敵、聖徒を訴える者、あらゆる偽宗教の創始者、現在の背教のうしろにある大きな力、反キリストの主、すべての暗い力をうみだす者である。 しかし、最後には神の御子の手によって滅ぼされ、神の義に基づく裁きとして、彼と彼に従った堕天使のために備えられた地獄で、永遠の刑罰を受ける。

6.創造について

私たちはこう信じる。初めに神は、天と地とそれに満ちるものを直接創造され、神のかたちに似たものとして人を創造された。創世記にある創造の記事は寓意的、あるいは比喩的にではなく、字義的に受け取るべきものである。

7.堕落について

私たちはこう信じる。人は創造者によって罪のない者として造られたが、故意の犯行によって、神が意図し、用意された幸福な状態から堕落した。その結果、罪は全人類に及んだ。それゆえに人は神の律法の要求する聖さに全く欠けており、欲望を満たすことに身をゆだねている。そのようなわけで、抗弁も弁明の余地もなく、正当な有罪判決のもとに置かれている。

8.律法と福音について

私たちはこう信じる。神の律法は、神の道徳的統治の永遠かつ不変の規則であり、それは聖であり、公正であり、善である。人間が律法の要求に応えられないのは、完全に自らの罪の性質に起因し、それはモーセの古い契約における律法を全うできなかったイスラエルから明らかである。新しい契約に基づく罪の赦しと再創造をもってそのような人間を救い出し、一人の仲介者を通して聖なる律法への偽りのない従順に回復させることが福音の最大の目的であり、これによって可視的教会が形作られる。

9.あがないについて

私たちはこう信じる。罪人の救いはまったく恵みによる。それは神の御子イエス・キリストのとりなしのつとめを通してである。彼は御父の任命により罪のほかは私たちの性質を自らすすんでとり、自らの従順により神の律法に栄光を帰し、その死と復活により御父の怒りを鎮めて神の義を満足させて世に和解をもたらし、悪魔に勝利して罪人をその支配から解放し、モーセの契約を成就して新しい契約をたて、ご自身の民の罪の刑罰の代償となられた。今、天の王座に座しておられる。またそのすばらしい人格の中に最もやさしい同情と神としての完全性とがむすび合い、あらゆる点でふさわしく、慈悲深くまったく十分な救い主としての資格を持っておられる。

10.神の計画と人の責任について

私たちはこう信じる。神の神性と永遠の力は全被造物に知られ、救いの祝福は福音によりすべての人に無代価で提供されている。それゆえすべての人は心からの悔いと服従する信仰をもってこれを受けいれなければならない。救いを受けそこなうのは生来の腐敗性と福音を故意に拒むことによって自らが滅びへ向かうからである。しかし神は世界の基の置かれる前からご自分の民を救う哀れみ深い計画を持たれた。福音をこばむことはその人を恐ろしい宣告の中にとどめることになる。

11.救いについて

私たちはこう信じる。神はご自身の計画に従って罪人を救い、救いの完成に至らせる。

神はすべての人に救いの必要を呼びかけ、聖霊は世に誤りを指摘する。これに応答する人は、聖霊を介した御父の力強い召しを受けて選ばれ、キリスト・イエスと一体となり、キリストと共に古い自分に死んで新生する。新生によって罪人は神の性質にあずかるものとされ、神の無代価の賜物である永遠のいのちをうける。新生は新しい契約に従った全面的かつ一方的な聖霊の力による。こうして人は自発的に自分の罪・危険・無力さとキリストによる救いの道について深く自覚し、いつわりのない悔い・告白・あわれみの嘆願をもって悔い改めて神に立ちかえり、救い主イエス・キリストとその贖いの御業を信じ受け入れ、義認される。義認は人が行なった何らかの善行を考慮してではなく、キリストへの信仰によるもので、キリストの義が信者に帰せられる宣言である。神は、新生し義認された聖徒を、キリストを長子とした神の家族に加え、神の祝福を相続する者とされる。

神は聖化を通して聖徒を救い続ける。聖化は、新生した聖徒が神の聖さにあずかる者とされる漸進的な過程である。特に神の御言葉、自己吟味、罪との闘い、そして祈りを通して、御国を受け継ぐ証印であり慰め主である聖霊の臨在と力によって継続される。大牧者イエス・キリストの羊である聖徒は、地上で不従順ゆえに裁きにあうことがあったとしても、決して滅びることなく、奪い去るものは誰もいない。

キリストが再び来られる時、キリストにある死者は復活し、キリストにある生者と共に一瞬のうちに変えられて御霊のからだとなり、罪に起因するすべての涙は拭い取られ、キリストのからだにつらなる聖徒達は共に神のかたちを回復し、永遠の救いに至る。

12.教会について

私たちはこう信じる。教会とは福音の信仰と交わりを内容とする契約によってむすばれ、イエス・キリストを信じてバプテスマを受けた信者たちの集まりを指す。教会はキリストの礼典を守り、神の律法によって支配され、みことばによってあたえられた賜物・権利・特権を享受するものである。教会の職務には牧師(長老・監督)と執事がある。牧師は按手を受けて御言葉を教え、執事は牧師を支え教会に仕える。その資格については聖書に定義されている。教会は聖霊の力を受けて福音宣教を遂行する。地方教会は自主独立であり、かしらであるキリストだけが聖霊を通して監督される。

また新約聖書では、キリストのからだであり、あらゆる時代の部族、言語、民族、国民から贖われたすべての信者を含む教会についても述べられている。

13.バプテスマと主の晩餐について

私たちはこう信じる。バプテスマは父と子と聖霊の名によって行われる信者の全浸礼である。これは十字架で死なれ、葬られ、よみがえられたキリストと私たちが一つにされた象徴であり、正しい良心の神への誓約である。これは教会員としての特権や主の晩餐につらなることの先行条件である。主の晩餐はキリストの砕かれたからだと流された血を象徴するパンとぶどう液をもってキリストの死を記念し、告げ知らせる礼典である。自らを吟味しつつこれに与るべきである。

14.国の政府について

私たちはこう信じる。国の政府は人間社会の利益と秩序とのために神が定められたものである。ゆえに為政者のために祈るべきであり、また誠実をもって彼らに従うべきである。ただし、私たちの主イエス・キリストの御心に反することは別である。

15.義人と悪人について

私たちはこう信じる。義人と悪人との間には本質的に相違がある。神の評価からすれば、信仰によりイエスの御名によって義とされ、聖霊によってきよめられた人だけが真に義人である。他方悔い改めず、不信仰のままにとどまる人はすべて神のみ前に悪人であり、のろいのもとにある者と見られる。人間の間のこの区別は死の場合も死の後も保たれて、義人は永遠の幸福に、悪人は意識をもったまま永遠の苦悩にいたる。

16.キリストの再臨およびそれに関するできごとについて

私たちはこう信じる。生けるキリストが目に見える肉体をもって空中再臨される。その時にはキリストにある死人がまずよみがえり、生きている聖徒たちはたちまち彼らと一緒に空中に携挙され主とお会いし、キリストのさばきの座で報いを受ける。地上では、かつてない大きな苦難が臨む。その後、キリストが大能と栄光をもって聖徒と共に地上再臨される。こうしてキリストはその父ダビデの位を回復し、すべての敵をその足のもとにおかれるまで義をもって王の王、主の主として千年の間世界を治められる。千年の後、白い御座において、いのちの書に名の記されていない者はさばかれ、火の池に投げ込まれる。神は救いのご計画のすべてを完成し、備えられた新しい天と新しい地にいのちの書に名の記されている者たちを導き入れる。